SS Yongala Wreck Information

世界に誇るレックダイビングポイント”SS Yongala"情報サイト

SS Yongala
Detail & History

1903 - 1911

Summery

船舶情報

船名: SS Yongala
所有者: Adelaide Steamship Company
船籍港: オーストラリア、アデレード
造船所: Armstrong Whitworth & Co Ltd
建造費: £102,000
進水: 1903年4月29日
運航開始: 1903年
運命: 1911年3月23日にサイクロンのため沈没。乗客・乗員122名死亡。生存者無し。
ステータス: シップレック(沈没船)
備考: クイーンズランド州で保存状態のいい最大級の沈没船。

基本スペック

排水量: 3,664 トン
全長: 107 m
推進: 大型蒸気エンジン3基シングルプロペラ
航行速度: 15.8 ノット (29.3 km/h; 18.2 mph) 公式最高航行速度
乗員: 72

レックロケーション

グレートバリアリーフマリンパークのセントラルセクション
タウンズビルから南東89キロ、ケープボーリンググリーンの東22キロの場所
GPSコーディネート
19°18’15.9 “S 147°37’31.6” E
(緯度 -19.30441666 経度 147.62544444)

ダイビング情報

船首方位は北向き(347°)であり、右舷に60°から70°の角度で傾斜。船の原型は留めている状態。海底までの水深は約30メートル(98フィート)で、レックのもっとも浅い場所で水深16メートル(52フィート)。

ヨンガラ号周辺の海底はサンゴ礁など全くない砂地になっており、周辺の生物にとって格好の人工漁礁となり複雑な生物環境を維持している。

SS Yongala Ship Layout

海洋生物学者のレオン・ザン(Leon Zann)がヨンガラレックの水中マップを作成。船の上部構造はそのまま残っておりスケッチに非常によく似ているが、船の右舷周辺に描かれている砂の部分は流され、煙突や手すりなどは現在は崩壊。

History

1903年4月29日

進水

貨物客船として建造され、アデレード港を船籍港として進水。船名は南オーストラリアの小さな町の名前で、先住民アボリジニのナジュリ語の言葉で「良い水」を意味していたヨンガラにちなんで命名される
1903年4月29日
1903年 - 1906年

航路①

西オーストラリアの金鉱とアデレード・メルボルン・シドニーの港を結ぶ客船として運航される
1903年 - 1906年
1906年 - 1907年

航路②

ヨンガラ号はブリスベン – フリーマントルルートに変更。当時、最長ルートとなるフリーマントルとブリスベン間の5,000キロ(2,700 nmi)のダイレクト航路を航海した最初の船
1906年 - 1907年
1907年 - 1911年

航路③

ブリスベン・フリーマントル間の需要が少なくなったことからアデレード・スチームシップ・カンパニーのメルボルン・ケアンズ路線に再割り当てられる
1907年 - 1911年
1911年3月14日

運命の最終航海へ

Captain William Knight
Captain William Knight in 1911
ウィリアム・ナイト艦長の指揮のもと、オーストラリア海域で99回目となる航海(最終予定寄港地ケアンズ)へ出発
1911年3月14日
1911年3月20日

ブリスベン到着

メルボルンからの乗客のほとんどが降りて、クイーンズランド州のその他の目的地へ向かう新しい乗客と貨物(競走馬ムーンシーンとリンカーン・レッドブルを含む)が積み込まれる。港の検査ではヨンガラ号に全く問題のない状態が確認され次の寄港地として予定されていたマッカイへ向かう
1911年3月20日
1911年3月23日

マッカイ到着

ブリスベンからの出発の遅れにもかかわらずヨンガラ号は3月23日の朝、マッカイに到着。乗客と貨物の積み替えを終え、船は49人の乗客と73人の乗組員と617トンの貨物を船倉に積み込み午後1時40分にタウンズビルに向けて出港
1911年3月23日

マッカイ出発

5時間後、デント島の灯台守がヨンガラ号がウイットサンデー海峡を通過する最後の姿を目撃。ヨンガラ号がマッカイから見えなくなる直前にタウンズビルとマッカイの間で熱帯低気圧を警告する電報をフラット・トップ・シグナルステーションが受け取り、旗や無線信号がステーションから発信されマッカイに避難する船がいくつか出てたが、ヨンガラ号はこの旗を視認することができず、さらに無線機器が取り付けられていなかったためこの警告を受け取ることはできなかった
1911年3月26日

行方不明、そして捜索開始

当初ヨンガラ号がタウンズビルに到着しなかったことは、サイクロンから避難しているためとしてあまり心配されなかった。 しかしその後、3隻の別の船がタウンズビルに到着し、ヨンガラ号は遭難したとして捜索が開始。当時のクイーンズランド州首相であったディグビー・デンハムは、公的サービス、警察などの7隻の船舶により捜索。 ヒンチンブルック島からボーエンまでの海岸でいくつかの残骸が発見されたが、ヨンガラ号や乗客・乗員の手掛かりは全く発見されなかった。見つかった唯一の遺体は、ゴードン・クリークの河口に打ち上げられた競走馬ムーンシネのみ。クイーンズランド州政府は船舶の発見につながる情報に£1,000の報酬を提供するが有益な情報が得られず取り下げる。 同時に「ヨンガラ号遭難基金」が設立
1911年3月26日
1911年6月8日 - 20日

クイーンズランド州海兵隊による捜索

目撃情報等が無い中、ウィリアム・ナイト艦長のキャプテンとしての能力とともに船の安定性、設備、耐航性、船の状態(アデレード・スチームシップ・カンパニーによって提供された設計仕様に基づいて、海上試運転と7年間の無作為運転のデータに基づく)またはキャプテンの夜間航行能力(14年勤務したアデレード蒸気船会社の中でも最も能力が高いと評価されていたキャプテン)を検討した結果、理事会は「ヨンガラ号の運命は人間の理解を越えて、推測の領域に入り、海のミステリーとして付け加えられる」と結論。
1911年6月8日 - 20日
1914年9月30日

ヨンガラ号遭難基金終了

乗組員の家族の救済に使われた資金が調達された基金は、残金900ポンドをQLD州船舶協会に移管し業務を終了。
1914年9月30日
1943年

最初の発見か

掃海艇がケープ・ボウリング・グリーンから東へ11マイル離れている場所でタウンズビルに向かう航路上の約水深24mに障害物を記録
1943年
1947年6月

発見されたが

終戦後、オーストラリア海軍の調査船”HMAS Lachlan”が対潜水艦機器とエコーサウンダーを使いこの障害物を調査。22m~26mにある12~14個の物体に囲まれた水深11mほどにある6つの物体を確認。HMAS Lachlanはその地域を何度が探査した後、その物体の長さは約91m(91フィート)、蒸気船で水底に横たわっているのではないかと結論し、この海域で行方不明と報告された唯一の船はヨンガラ号だったが海軍はその後調査をすることはなかった
1947年6月
1958年

ついに発見

海軍の調査から10年以上経った1958年、ビル・カークパトリックがヨンガラ号の内部から金庫を引き上げる。金庫の中は泥以外何も残っていなかった
1958年
1961年

ヨンガラ号と確定

船の識別の手がかりとして金庫のシリアル番号の一部”-9825W”が判明し、Chubb製の金庫であることからシリアル番号をロンドンのメーカーに照合。するとヨンガラ号に納品されていたことが判明
1961年

Yongala Wreck Dive Tour

ケアンズ発のヨンガラレックダイビングツアーを随時開催しています。

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