Yongala Trivia
ヨンガラ号にまつわる13のトリビア
潜る前に知っておくと、ヨンガラレックがもっと面白くなる話を集めました。どれも博物館や公文書館などの資料で確かめた内容で、各項目に出典を載せています。
無線機は「発送済み・未着」だった
ヨンガラ号のためのマルコーニ式無線機はイギリスから発送されていましたが、最後の航海の時点ではまだオーストラリアに届いていませんでした。
マッカイ出港の直後、フラットトップ島の信号所はサイクロン警報の旗と無線信号を出しましたが、無線機を積んでいないヨンガラ号は警報を受け取れませんでした。当時はまだ陸上の無線局もほとんどなく、無線機があっても受信できたかは分からないともいわれます。
見つかった遺体は競走馬ムーンシャインだけ
捜索で見つかった遺体は、ゴードン・クリークの河口に打ち上げられた競走馬「ムーンシャイン」だけでした。乗客・乗員は一人も見つかっていません。
当時「馬の積み込みで出航が遅れたことが遭難の原因」という噂が広まりましたが、記録ではムーンシャインは予定どおりに乗船しており、この噂に根拠はないとされています。
決め手は金庫の番号「9825W」
1958年に沈没船から引き上げられた事務長室の金庫には、黒い泥しか入っていませんでした。
それでも番号の一部「9825W」が読み取れました。1961年、イギリスの金庫メーカーChubb社が、1903年にヨンガラ号を建造したアームストロング・ホイットワース社へ納めた金庫だと確認し、船の身元が確定しました。
沈没船は「浅瀬」だと思われていた
1943年、海軍の掃海艇がケープ・ボウリング・グリーン沖で「浅瀬」に引っかかりましたが、調べられることはありませんでした。
1947年には測量艦ラクランが音響測深で長さ約91mの船影をとらえましたが、ここでも調査は進まず、ダイバーが実際に到達したのは沈没から47年後の1958年でした。
100年後にまたサイクロンに襲われた
沈没からちょうど100年後の2011年2月、サイクロン・ヤシがこの海域を通過しました。
巨大な波の谷間は深さ最大10mに達し、沈没船の上の水深は一時約5mになったとみられます。船体を覆っていた海洋生物ははがれ、鉄板の一部も失われて内部が見えるようになりました。1971年のサイクロン・アルセアでも同じような被害があったと考えられています。
姉妹船はオーストラリア唯一の病院船に
ヨンガラ号には同じ造船所で建造された姉妹船「グランタラ号」がありました。
グランタラ号は1914年、第一次世界大戦でオーストラリア唯一の病院船となりました。
懸賞金1,000ポンドは誰も受け取らなかった
クイーンズランド州政府は船の発見につながる情報に1,000ポンド(現在の約14万豪ドル)の懸賞金を出しました。
しかし名乗り出る人はなく、懸賞金は取り下げられました。
「運命は人知を超え、推測の領域へ」
1911年6月の海事委員会の審問は、船の状態にもナイト船長の能力にも落ち度はなかったと判断しました。
そのうえで「ヨンガラ号の運命は人知を超え、推測の領域へ移った」と結論づけ、沈没の原因は今も分かっていません。
犠牲者は「122人以上」
当時の新聞は乗船者を120人または121人と報じ、資料によっては122人や123人とされています。
子ども、使用人、一部の少数民族は公式の名簿に載っていなかったため、現在は「少なくとも122人」とされ、正確な人数は今も分かっていません。
ヨンガラ・ロッジを建てた人も乗っていた
タウンズビルの「ヨンガラ・ロッジ」の建物を建てたマシュー・ルーニーは、妻と末娘とともにこの船で亡くなりました。
この航海ではタウンズビルの有力者が何人も犠牲になっています。
年間1万人以上が潜る世界トップ10のレック
ヨンガラレックには毎年1万人以上のダイバーが訪れ、世界のレックダイビングのトップ10に数えられています。
周りに岩礁のない砂地にあるため、多くの魚やウミガメ、エイ、サメが集まる人工漁礁になっています。
船内には入れない「墓所」
ヨンガラ号は多くの人が眠る墓所でもあるため、船内に入るダイビングは禁止されています。
沈没船の周り半径797mは保護区域で、入るには許可が必要です。75年以上前の沈没船と遺物は2018年の水中文化遺産法で保護されており、物を持ち帰ることもできません。

